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【岐阜】大河ドラマ『どうする家康』天下分け目の関ケ原に参戦した武将の陣跡11選

【岐阜】大河ドラマ『どうする家康』天下分け目の関ケ原に参戦した武将の陣跡11選

2024-10-25 Obaq

NHK大河ドラマ2023『どうする家康』の主人公、徳川家康は戦国時代の乱世を生き抜きました。人生の大半の合戦に明け暮れる日々を過ごしました。中でも最大の決戦となったのは、天下分け目の関ケ原の合戦でしょう。岐阜県の西南端に位置する関ケ原町には、合戦に参戦した武将の陣跡が残されています。その中から11人の武将の陣跡と合戦の史跡をご紹介します。
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国内では47都道府県、海外では67ケ国を巡っております。この経験をいかし、
幅広い視野で観光スポットの魅力や特徴をお伝えして参ります。

岐阜関ケ原古戦場記念館

戦国時代の最終盤に天下分け目の決戦が行われた関ケ原は、岐阜県の西南端に位置します。数多くの小高い山に囲まれた平原で、徳川家康が率いる東軍と、石田三成が率いる西軍が、1600年10月21日に激突したのです。家康の最後の陣地の跡地には2020年10月21日、岐阜関ケ原古戦場記念館がオープンし、関ヶ原の合戦の歴史を五感で体験できるようになりました。1階の大型スクリーンには、風や振動、光と音の演出によって関ケ原の合戦を臨場感たっぷり再現した映像が映し出されます。館内には貴重な資料や収蔵品が展示されるばかりでなく、刀剣や火縄銃などの武器に触れることができる体験コーナーも設けられています。

<施設情報>
施設名 岐阜関ケ原古戦場記念館
住所 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55
電話番号 0584-47-6070
開館時間 9:30から17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)/12/29~1/3
入館料 一般=500円/高校生・大学生=300円/中学生以下=無料
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約10分
公式ホームページ https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/

所要時間約6時間で合戦の全貌がつかめる「行軍コース」

岐阜関ケ原古戦場記念館で関ヶ原の合戦の歴史の概要を体感した後に、実際の合戦の現場を散策すれば、歴史的なロマンをさらに深く感じることができることでしょう。関ケ原観光協会では目的や所要時間ごとに、歴史散策のためのモデルコースを紹介しています。「決戦コース」、「行軍コース」、「天下取りコース」、「西軍大好きコース」、「東軍大好きコース」の5コースです。本記事では、所要時間約6時間で合戦の全貌がつかめる「行軍コース」に焦点をあて、関ケ原に参戦した武将の陣跡をご紹介します。

松平忠吉・井伊直政陣跡

「行軍コース」のスタートポイントは、松平忠吉(まつだいらただよし)・井伊直政(いいなおまさ)陣跡です。家康の四男の松平忠吉とともに陣を張った井伊直政は、「徳川四天王」の一人に数えられ、「井伊の赤鬼」と呼ばれる猛将でした。真赤な甲冑で身を包み、開戦のときを待ちました。朝の霧が晴れはじめた午前8時頃、井伊隊が西軍に向かって発砲し、激戦が始まったのです。

<施設情報>
施設名 松平忠吉(まつだいらただよし)・井伊直政(いいなおまさ)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原908-3
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約3分

田中吉政陣跡

田中吉政(たなかよしまさ)陣跡は、徳川家康の最後の陣跡の南に接しています。笹尾山麓より討って出る石田隊の兵と激突したと伝わります。決戦に敗走した石田三成を捕らえたのは、田中吉政でした。

<施設情報>
施設名 田中吉政(たなかよしまさ)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約10分

徳川家康最後陣跡

決戦を前に徳川家康が最初に本陣を構えたのは桃配山(ももくばりやま)の中腹でした。石田三成が本陣を置いた笹尾山(ささおやま)の東方約3キロから合戦の様子を見守ったのです。ところが、一進一退の戦況に苛立ち午前11時頃、桃配山から西に進軍し関ケ原の中央部、笹尾山のすぐ下に本陣を移動しました。徳川家康最後陣跡から松尾山に発砲を行うことによって、小早川秀秋の西軍に対する裏切りを促し、みごと決戦の勝利へと導いたのです。

<施設情報>
施設名 徳川家康最後陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約10分

細川忠興陣跡

細川忠興(ほそかわただおき)は、合戦場の東方を流れる相川の南、岡山烽火場の麓に布陣しました。関ケ原の合戦に参陣する前の大坂で、妻の細川ガラシャは石田三成の人質にされるのを拒否し自らの命を絶ちました。細川忠興にとっての関ケ原の合戦は、妻の弔い合戦でもあったかもしれません。

<施設情報>
施設名 細川忠興(ほそかわただおき)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原811−104
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約7分

黒田長政・竹中重門陣跡

互いに父親が豊臣秀吉の軍師を務めた黒田長政(くろだながまさ)と竹中重門(たけなか しげかど)は、東軍として参戦し関ケ原東部の岡山に陣を構えました。小高い山からは、南宮山、松尾山、笹尾山、中山道、北国街道、伊勢街道を一望することができ、戦況を把握するのに絶好と場所と言えそうです。陣中には岡山烽火場(のろしば)が設けられ、戦機を逃すことなく烽火があげられ、東軍の勝利に大きく貢献したことでしょう。

<施設情報>
施設名 黒田長政(くろだながまさ)・竹中重門(たけなか しげかど)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原732-27
アクセス R21関ケ原バイパス瑞竜を北に車で約2分

決戦地

関ケ原の合戦の決戦地は、石田三成が本陣を構える笹尾山の南東の麓、徳川家康最後陣跡の北西に広がる田園地帯でした。当日の午前中は西軍が有利の展開で進みましたが、小早川秀秋が東軍に寝返ったことによって戦況が激変します。一気に東軍が優勢となり、数時間の奮闘もむなしく西軍は敗北しました。激戦の跡地には、大きな石碑、徳川家、石田家の家紋入りの旗が立てられ、休憩所も設置しています。現在は、のどかな雰囲気が漂う平原が、日本の歴史を決定づける現場となったのです。

<施設情報>
施設名 決戦地(けっせんち)
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約20分

笹尾山・石田三成陣跡

西軍を率いた石田三成は、決戦地の北西に位置する小高い山の笹尾山に本陣を構えました。山の麓には合戦時に、東軍の攻撃からの防御のために作られた竹矢来(たけやらい)、馬防柵(ばぼうさく)が復元されています。柵の前には島左近が布陣し、石田三成は鉄壁の守りで開戦に備えたのです。

笹尾山からは関ケ原の田園地帯を一望することができます。南西には合戦において重要なポイントになっていた北国街道が走り、東西両軍の武将の陣跡を見渡すこともできるのです。石田三成は山の斜面から関ケ原を鳥瞰し、指揮をとったに違いありません。

<施設情報>
施設名 笹尾山(ささおやま)・石田三成(いしだみつなり)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4008
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約25分

島津義弘陣跡

笹尾山の南約800メートルの神明神社の森に、陣を張ったのは島津義弘(しまづよしひろ)でした。西軍の布陣地のほぼ中央部に軍勢を控えさせながら、合戦では目立った動きを見せませんでした。14時頃に小早川秀秋が寝返り、東西両軍の勢力が逆転すると、島津隊は敵中に孤立する形となりました。西軍の敗北が確定的になると、大胆にも敵中を突破し伊勢街道を一目散に南進したと伝わります。

<施設情報>
施設名 島津義弘(しまづよしひろ)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1869-3
アクセス JR東海道本線「関ヶ原駅」より徒歩約15分

開戦地

天下分け目の関ケ原の合戦の開戦地は、北天満山を背景とする西田運動広場の入口周辺と推定されています。合戦当日、東軍の松平・井伊隊が、西軍の宇喜多隊の前に進出し発砲したのが開戦の号砲となりました。松平・井伊隊に先鋒の大役をかすめとられた福島正則が、憤慨しつつ宇喜多隊に向かって一斉射撃をしかけ、両軍入り乱れての合戦が始まったのです。

<施設情報>
施設名 開戦地(かいせんち)
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原2368-1
アクセス R21松尾交差点から北へ車で約2分

北天満山・小西行長陣跡

開戦地に隣接する位置に陣を敷いたのは、西軍の小西行長(こにしゆきなが)でした。北天満山の裾を流れる梨木川の西岸は、北の北国街道、南の中山道を押さえる重要な場所だったのです。松平・井伊隊が放った銃声を耳にするやいなや、天満山から烽火(のろし)を上げて西軍に開戦を知らせました。合戦の終盤に大谷隊の敗北の知らせを受けると、天満山を越え揖斐郡の春日方面に逃れたと伝わります。

<施設情報>
施設名 北天満山(きたてんまやま)・小西行長(こにしゆきなが)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原2368-1
アクセス R21松尾交差点より北へ車で約2分

南天満山・宇喜多秀家陣跡

小西行長の陣から南西方向の南天満山の麓に陣を構えたのは、西軍の副総帥を務めた宇喜多秀家(うきたひでいえ)でした。約1万7千の兵を率いて西軍の主力部隊を指揮したのです。開戦の烽火とともに東軍の福島隊に突撃を受けながら、午前中には互角の戦いを続けました。西軍が敗北すると秀家は、山中をさまよった後、密かに島津氏を頼って薩摩へと向かったようです。幸い死罪を免れたものの八丈島へ流され、余生を離島で過ごしたと伝わります。

<施設情報>
施設名 南天満山(みなみてんまやま)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4146-1
アクセス R21松尾交差点より北へ車で約2分

大谷吉継陣跡

関ケ原の合戦場の西端に布陣したのは、西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ)でした。合戦が始まる凡そ10日前に、若宮八幡宮の境内を上る山中の急斜面に陣を作り始めたのです。天才軍師の才を働かせ、小早川秀秋の裏切りを予想し松尾山の正面に陣を定めたと伝わります。病身でありながらも石田三成への義を貫き死に装束で参戦し、膠着する戦況下で自らの命を絶ちました。吉継が自害した知らせは瞬く間に西軍に広まり、各部隊の敗走を促進したと伝わります。

<施設情報>
施設名 大谷吉継(おおたによしつぐ)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字山中30-1
アクセス 平塚為広碑より山中へ徒歩約20分

福島正則陣跡

関ケ原の合戦場の南端に布陣したのは、東軍の福島正則(ふくしままさのり)でした。井伊直政に東軍の先陣を出し抜かれながら、間髪を入れることなく宇喜多隊に襲いかかったと伝わります。陣跡の春日神社の境内に育つ樹齢約800年の「月見の宮大杉」は、「関ケ原合戦図屏風」にも描かれています。

<施設情報>
施設名 福島正則(ふくしままさのり)陣跡
住所 岐阜県不破郡関ケ原町大字松尾111
アクセス R21松尾を南に徒歩約5分

まとめ

徳川家康の生涯において最大の節目となったのは、天下分け目の関ケ原の合戦でしょう。全国の武将が関ケ原に集結し、その後の日本の歴史を決定づけました。現在でも合戦現場には歴史的な痕跡が残されています。その中から関ケ原観光協会が紹介するモデルコースの「行軍コース」に焦点をあて、11人の武将の陣跡と合戦の史跡をご紹介しました。

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